アート思考入門(6)旅館のコンセプト再構築( 戦略フォーサイト)

sakura

 

日経産業新聞 2021年6月9日に寄稿した記事を転載します。

 

 2014年、新潟県南魚沼市の大沢山温泉に築150年の古民

家を移築しリノベーションした旅館「里山十帖」がオープンした。

オーナーの岩佐十良氏は雑誌「自遊人」の編集長で、旅館の経

営は初めてだった。しかも観光地ではない立地という難しい条件

ながら、開業3カ月で稼働率9割を達成した。この旅館の取り組

みはアート思考が存分に使われている。それをまとめると以下の

ようになる。

 

 (1)旅館とはどうあるべきかを抽象度をあげて考え、新しい

コンセプトを構築した。

 (2)旅館経営の素人でありながら、多くの困難を突破してき

た。

 (3)ターゲット層を絞り、その人達のことを考えた旅館を自

らの体験を基に作り、多くの共感を得た。

 

 「自遊人」の本拠地を東京から南魚沼市に移していた岩佐氏に、

「古民家の旅館が廃業になるけど興味あるか」という話が来た。

総けやき、総漆塗りの素晴らしい建物だが、過去約20年間で

3回経営者が代わっていた。冬期の暖房費用を回収できなかった

という。設備も老朽化していた。

 

 どう考えても難しい事業だ。しかし、壊すと二度と作れない建

物であり、実際にそこで働いてみて、魅力ある旅館によみがえら

せることができると確信。引き受けることにし、旅館とは本来ど

うあるべきかを考えることから始めた。

 

 そうして考え出した方針が、多くの旅館とは異なる「お客様を

限定する」ことだった。長年携わった雑誌の世界では対象を絞る

ことで読者を獲得してきた。旅館もメディアと捉え、対象を絞っ

た方が深い共感を得られると考えた。思考を飛躍させ、旅館を

「共感メディア」という新たなコンセプトで再構築したのである。

 

 そして旅館の使命を「人々に唯一無二の経験、豊かさを提供す

ること、環境保全・農業振興などに貢献すること」と捉えた。使

命感は、様々な困難を突破する大きな原動力になった。

 

 共感を呼ぶための具体策は自らの体験を重視した。マーケティ

ングデータに頼ると他の人と同じになるからだ。実際に約130

0カ所の温泉に入り、約3000軒の宿を訪れ、どんな人が何に

共感するかを考え抜いた。各旅館の顧客層と自分たちの旅館の方

向性を重ね合わせ、感動を呼び起こす仕組みや最終的なコンセプ

トを詰めていった。

 

 「共感メディア」として特にこだわっているのが料理だ。「料

理を通じて体験、発見、感動を提供する」ことを目指しており、

定番メニューは用意せず、他の地域では食べられない郷土料理を

ベースに、ほぼ毎日違うメニューを創作している。これを実現す

るため朝食と夕食のスタッフは分け、各料理に専念できるように

した。

 

 アーティストが作品の意味をゼロから考えて新しいコンセプト

を打ち立てるように、旅館の意義を抽象化して「メディア」とい

う斬新なコンセプトを生み出す。また、ドローイング(スケッチ)

を何枚も描き作品を固めるように、実体験を積み重ねて事業を

磨き上げていく。アート思考が成功につながった好例といえる。

 

 こうした取り組みを岩佐氏は「デザイン的思考」と呼んでいる

が、「思考の飛躍」という意味ではアート思考の要素を多分に含

んでいる。里山十帖の経営については「里山を創生する『デザイ

ン的思考』」(岩佐十良著、KADOKAWA)に詳しい。

 

記事のPDFはこちらをご覧ください。

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里山十帖

自遊人

里山を創生する「デザイン的思考」

 

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